ゆづオンリーファンの皆さま、こんにちは。
年末のお忙しい中、ゆづの情報をゲットしている
方も多いと思います。
週刊誌の記事ですが、まともな記事でしたので、
ご紹介させていただきますね。
羽生結弦が語った夢「3年後に日本のスケート界を変える」

『常に高みを目指し続けてきた羽生結弦選手。
ケガをも恐れない挑戦に、ファンは冷や冷やしながらも、
いつも温かい目で見守ってきた。
そんな羽生を襲ったアクシデント。
11月9日、NHK杯の公式練習での右足関節外側靱帯損傷。
足は予想以上に深刻な状態だが、'18年2月の平昌五輪では
復活できるのか。
試練を成長の糧に変えてきた彼の闘いと復活の軌跡、
そしてその先にある将来のビジョンとは−−。
「結弦くんが小学生のころです。スケートを続けるか
どうか、家族で話し合ったことがありました」
そう話すのは、羽生の親戚の1人。当時、彼が通っていた
仙台市内の「泉DOSCアイスアリーナ」が経営難のため閉鎖され、
練習拠点がなくなった。
仙台市内には、ほかに2つ、スケートリンクがあったが、
それぞれ自宅から7キロ、20キロと離れていて、小学生が
1人で通うのは難しかった。
「お父さんの秀利さんは、スケートをやめさせる
つもりでした。フィギュアはお金のかかるスポーツですから、
金銭的な事情もあったんでしょう。
でも、お母さんの由美さんが猛反対して。
『待って。もう少しやらせてあげて。パートの仕事を
増やすから』と−−」
当時、由美さんはスーパーの紳士服売場で、主任待遇で
働いていた。そのパート時間を増やすと同時に、遠くなった
リンクまでの送り迎えも始めている。
そのころのことを由美さんは、地元紙にこう答えている。
《結弦は、小さいときはのんびりしていて、コーチに
怒られて、泣いていたこともありました。
でも練習できないつらさを味わい『自分がやらなきゃ』
という自覚が出てきました》
ホームリンクの閉鎖は、羽生のスケートを人生で初めての
試練だったが、彼はそれを成長の契機にした。
ソチ五輪金メダル、世界選手権は2度、優勝。
GPファイナル4連覇と、次々に記録を塗り替え、
世界歴代最高点をも更新し続けてきた。
94年12月7日、羽生は宮城県仙台市で生まれた。
父・秀利さんは中学校教師。
住まいは、仙台市北部の県営アパートだった。
4歳のとき、姉が通っていたスケート教室についていき、
フィギュアスケートと出合う。
羽生が通った泉DOSCは、トリノ五輪金メダルの
荒川静香、世界選手権で2度の銅メダルを獲得した
本田武史を輩出した名門リンクだ。
ぜんそく持ちで、体が弱かった羽生だが、スケートに
関しては非凡なものがあった。
世界選手権で日本人初の銅メダリストとなった
佐野稔さんを育てた名コーチ・都築章一郎さんが
泉DOSCに移籍してきたのは、羽生が7歳のとき。
都築さんの目から見ても、羽生はスケートに関して、
卓越したものがあったという。
「とにかく感性がすごかった。曲をかけたとき、
おじけづかずに対応できる。子どもにはなかなか
できないことなんです。非常に積極的で、自分という
ものを持っていました」(都築さん)
都築さんは、羽生に徹底的に基礎をたたき込む。
小学校4年の10月、羽生は初出場した全日本ノービスで
優勝する。
フィギュア関係者の間で「仙台にマッシュルームカットの
天才がいる」と、ささやかれ始めた。泉DOSCの閉鎖は、
その直後のことだった。
羽生は別のリンクに通い始めたが、自宅から遠い分、
練習時間が十分にとれない。都築さんが横浜に拠点を移すと、
平日は仙台で練習し、週末だけ横浜まで新幹線で通い、
都築さんの指導を受けるようになった。
「それ以降、中学卒業まで、横浜に通い続けた。
休まずに、です。お母さんもずっと付き添っていました。
お母さんは、結弦の心の支えであり、彼の考え方や
精神力の根本になったと思います」(都築さん)
中学1年の3月、泉DOSCが「アイスリンク仙台」と
名称を変え、営業を再開する。
'11年3月11日。高校1年生だった羽生は、期末試験を終え、
昼ごろからアイスリンク仙台で練習していた。
そのさなか、東日本大震災が発生する。
羽生にとって2つ目の大きな試練だった。
ライフラインはすべて止まり、自宅は全壊指定。
一家は、小学校の体育館に4日間、避難した。
ようやく電話がつながるようになると、由美さんは
横浜の都築さんと連絡をとり、
「結弦をそちらで練習させてもらえないでしょうか」
とお願いした。
そして3月20日、横浜へ移動した羽生は練習を再開する。
「震災直後の結弦は不安定な状態でした。
震災は彼の心を傷つけた。そのなかで競技に向き合える
環境をつくることが急務でした。ご両親も心配だったでしょう」
(都築さん)
羽生自身もこう話している。
「生きていくだけで精いっぱい。このままスケートを
諦めてしまおうと思った」
大震災で、関東圏のリンクの多くが閉鎖し、スケーターが
練習場所を求めて、横浜のリンクに集まってくる。
羽生の練習時間も限られていた。
そんな羽生を後押しするように、地元も動いた。
県と仙台市から、アイスリンク仙台に、早期の営業再開を
求める要請が入ったのだ。
練習ができる喜びを味わった羽生は、'12年3月、
世界選手権に初出場する。
総合で銅メダルに輝いた羽生は、テレビのインタビューに
笑顔でこう答えている。
「被災地のために滑ろうと思っていたのですが、
それは違うんだな、と。逆に、僕は、支えられている
立場だったんです。応援されている立場。
その応援をしっかり受け止めて、演技することがいちばんの
恩返しだと気づいたんです。
やっと自分のなかで、震災を乗り越えられたんだ
という気持ちになりました」
わずか17歳3カ月。多くの刺激を成長に変え、
ソチ五輪の表彰台まで一気に駆け上がっていく……。
羽生は都築さんとこんな夢を語り合っている。
「日本は、フィギュア選手にとって環境が
整っているとはいえません。結弦には『将来、引退したら
プロデューサー的な立場で、リンクやシステムづくりの
部分でも、環境を整えてほしい』という話もしています。
結弦のような人気も実力も兼ね備えた選手ならできる
と思うんです。そうすると彼は、
『3年は待ってください、先生』と、言いました。
おそらく彼には、将来のビジョンがすでにあるのでしょう」
(都築さん)』
ゆづの幼少期からのあらましが記されていて、
良い記事でした。
何度も試練を乗り越えてきた羽生選手だからこそ、
そして五輪チャンピオン、世界王者に輝いた実力の
ある羽生選手だからこそ、できる将来の計画という
ものがあるのでしょう。
あと3年は待って欲しい・・・
いつから数えての3年なのかで、ゆづの引退時期や、
将来のビジョンを計画に移す時期がわかると思いますが、
それがいつであるにせよ、ゆづはしっかりと引退後の
将来を見つめていることがわかります。
都築先生の願いや、羽生選手自身が描いているビジョンが、
必ずや実行されることを私たちファンも期待しています。
■その他の記事。
恩師が語る羽生結弦の不屈「僕に不可能の文字はない!」
前半は野口美恵さんの言葉が主でしたが、後半部分のみ、
転載させていただきますね。

『世界選手権で2度の銅メダルを獲得、現在は
フィギュアスケートの解説者を務める本田武史さんは、
羽生が今回のケガをする場面に遭遇していた。
「ちょうどあの日、僕は目の前で見ていた。
ジャンプで跳び上がった瞬間、合ってないぞと思いました。
普通は回転をやめますが、羽生選手はそのまま行って
しまったので、転んではいけない方向に転んでしまった。
全日本に出たい気持ちもわかるが、五輪で100%を出すことを
考えて、足と相談してほしいと思います」(本田さん)
本田さんと羽生は、ともに仙台市内の「泉DOSCアイスアリーナ」
に通った間柄。仙台時代には接点はなかったが、東日本大震災後の
アイスショーで、同じリンクを滑った。
「あのころ羽生選手は東神奈川にいて、すごい数のアイスショーに
出ていました。お客さんの前で、緊張感をもって滑る経験を積んで、
練習時間も練習場所もない逆境を克服したんです。
彼はマイナスをマイナスと考えていなかった。どうしたら、できるのか。
そればかりを考えていました」(本田さん)
《逆境はプラスだ》という考え方が、彼のなかに芽生えたのは、
このころだ。泉DOSCで、羽生を指導した都築章一郎さんは言う。
「アイスショーが、リハビリになったと思います。
横浜のリンクで練習して、ショーで確かめる。
その半年間でした。
震災で、生と死について、強く感じたと思うし、
それを乗り越えて、競技している。
結弦は、天真爛漫に動いていた少年時代より、強い信念を
もってスケートをするようになりました」(都築さん)
最後に、数々の危機を乗り越えてきた羽生を見て
本田さんは思う。
「『不可能という文字はない』それは、
羽生選手の生き方」』
ゆづには不可能はない!
もちろん人間ですから、限界はあると思うし、
不可能もあるはずですけど、挑戦し続けている今、
自分に限界を設けず、可能にするべく努力している
姿を見て、本田さんはそう思うのでしょう。
そうですとも

五輪を目前にして、怪我をしたとはいえ、
羽生結弦は、きっと劇的に復活します

あの2015年のファイナル同様かそれ以上の感動を、
平昌で見せてくれると信じてます。(*´▽`*)
■元旦の朝日新聞に『負けず嫌い 羽生結弦』
という特集記事が掲載されるようです。
スポニチでも羽生結弦を特集するようですが、
元旦の新聞記事がとても楽しみですね。

家は朝日なので、ラッキーでした。(*´▽`*)
楽しみ楽しみ

負けず嫌い・・・って、($・・)/~~~
アスリートなら、特にトップに立つ人なら、
ほとんどの人が負けず嫌いだと思うんですけどね。
そうじゃないと勝てないでしょう。
そして、本日の河北新報には「五輪連覇へ 夢よ届け」と
題するゆづの記事の広告が出ているみたいです。



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オリンピックで優勝する為には、4歳から初めて19歳で金メダルを取るには、年間300万。←コーチ代リンク貸し切り代等などで約1億必要と言われていますよね? これは最短距離で羽生選手の事です。
この額はスポンサー無しでしょうか?? クリケットへは樋口豊さんのアドバイスで実現化。後にANAさんと契約。日本介連は丸投げ。
その樋口豊さんは癌、、、と聞きました。その為に本を出版されるとか。
樋口さんは本当にゆづの事誉めています。ゆづの為にはお元気でいて欲しいです。
マリリンさん、又 本音を言ってしまいました。
結弦くんの3年後〜という記事ですね。
都築先生と、夏のスケート教室の時にでも話したのでしょうか…?!そこから大体3年後〜とも取れますね。
平昌五輪後、結弦くんはFaoiのショーも有りますが、卒論の準備があるのでは…?大学院進学の準備もあるかもしれませんね。
引退は来季に埼玉の世選が有りますし、国別もね。どうなるかな…
プロスケーター兼大学院生で活動して、区切り付く頃に3年後…?!
(^-^)結弦くんは賢いし、指導者やトレーナーも合いそうですよね。
何となく都築先生は、結弦くんにあとを継がせたいのかなぁと。先生もご高齢ですもんね。
(^^)想像も楽しいですが、まずは平昌五輪連覇です! 66年振りの連覇〜金メダルよ♪
>クリケットへは樋口豊さんのアドバイスで実現化。
>後にANAさんと契約。日本介連は丸投げ。
ゆづには素晴らしい人がバックアップしてくれたのですね^^
すけ連はあまりやってくれなかったのでしょうか。
費用はある程度出してくれているみたいですけどね。
樋口さんは解説も暖かくて好きです^^
ゆづにはいい人がいつも付いていてくれますね。
てるこさん、こんにちは(*^。^*)
昨年中はたくさんのコメントをありがとうございました。
ことしもよろしくお願いいたします。
>平昌五輪後、結弦くんはFaoiのショーも有りますが、卒論の準備が
>あるのでは…?大学院進学の準備もあるかもしれませんね。
いつから数えての3年後なのかとても気になりますね^^
でも、ゆづの心の中ではすでに固まっているのかもしれませんね。
ゆづの口から現役を退くという発言を聞く日まで、詮索せず、
応援をがんばるのみです。
ゆづなら何をしても成功する人だと思うので、セカンドキャリアには
心配はしていませんが、私たちファンを喜ばせてくれるよう、極力
目立つ仕事をしていただきたいです^^